元陸上選手で、現在は会社経営や執筆など、さまざまな活動をされている為末大さん。あるとき社会的養護に興味を持たれ、「若者おうえん基金」に寄付をしてくださりました。そこで今回は為末さんに、児童養護施設や里親家庭を出たあとの子ども・若者などを支援するアフターケア相談所「ゆずりは」を訪ねてもらいました。
為末さんを迎えてくれたのは、ゆずりは所長の高橋亜美さん。なぜアフターケアが必要なのか、「がんばれない」とはどういうことなのか、「自立」という言葉をどうとらえたらよいのか、社会的養護をめぐるさまざまなテーマをお二人がじっくりと語り合いました。全2回でお届けする対談の【前編】です。
この対談は、若者おうえん基金のクラウドファンディング関連企画として実施しました。READYFORのプロジェクトページに掲載した対談のアーカイブ記事となります。
若者おうえん基金は、児童養護施設や里親などを巣立つ子ども・若者たちを応援する基金です。伴走支援者たちの活動を助成することで、苦しさを抱えた子ども・若者への支援をおこなっています。2018年の基金創設以来、のべ219団体に1億1400万円を超える助成を実施しています。
為末大(ためすえ・だい)
スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者。現在は執筆活動、会社経営を行う。Deportare Partners代表。新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。Youtube為末大学(Tamesue Academy)を運営。国連ユニタール親善大使。主な著作に『Winning Alone』『走る哲学』『諦める力』など。
高橋亜美(たかはし・あみ)
社会福祉法人 子供の家 ゆずりは 所長、アフターケア事業ネットワークえんじゅ代表理事
社会福祉法人子供の家が運営する自立援助ホーム「あすなろ荘」の職員として9年間勤務後、同法人が立ち上げたアフターケア相談所「ゆずりは」所長に就任。著書に『愛されなかった私たちが愛を知るまで』『子どもの未来をあきらめない 施設で育った子どもの自立支援』『はじめてはいた靴下』など。
アフターケア相談所「ゆずりは」
児童養護施設や里親家庭などで生活していた人、虐待や支配などの理由から親や家族を頼ることができない人などの相談受付・サポートをおこなう社会的養護のアフターケア事業所。社会福祉法人子供の家が運営。
https://www.acyuzuriha.com/
為末:僕が「若者おうえん基金」のような活動に関心を持ったきっかけは、児童養護施設で育った2人の人から話を聞いたことでした。話しているうちに、「自己肯定感を持ちにくい」ことが共通しているように感じられて。そのうちの一人は「いつも“毒”を受けている感じ」と言うんです。普通にしていると気持ちが弱っていくから、そうならないように意識していないと元気でいられない、と。
スポーツをやっていて思うのは、最終的には勝負強さって「自己肯定感」なんですね。苦しいことがあっても一人でちゃんと回復できて、自分は大丈夫だと立ち返れる。その力を養うのは幼少期しかないと思っていたので、彼らの話と表裏一体で符合する感じがしました。根本の部分に、不安があるのだと。
ただ、そうじゃない人生を過ごしてきた僕のような人からは、やはり想像しにくいので、今日は「がんばれない」「安心できない」ってどういうことなのかをお聞きしたいと思って高橋さんを訪ねました。まず、高橋さんが所長を務める「アフターケア相談所 ゆずりは」について、教えてもらえますか?
高橋:2011年に開設したゆずりはは、児童養護施設(以後、施設)や里親家庭を離れた人をはじめ、社会に出たあとに困難を抱えてしまう人を支援する通所施設です。今はスタッフ6人で、年間500人ほどの相談を受けています。
施設や里親家庭で育った子どもたちは、親や家族から被害を受けて保護された場合が多いので、社会に出てから困っても頼るあてがありません。誰にも頼れず生活する中で、いろいろな手続きをするにも保証人がいない、精神的に不安定になる、仕事が続かず借金をしてしまうなど、かなり難しい状況に陥ることもしばしばあります。
そうした人が安心して相談できる場所として、ゆずりははオープンしました。手続きを助けたり、働く場としてジャム作りをおこなったりしています。(虐待などがあったにもかかわらず)保護されないまま大人になり、親や家族からやっと逃れてきたという人も、今では訪ねてくれるようになりました。あとは子どもと相対するのが難しい親向けのプログラムも実施しています。
高橋:為末さんのおっしゃった「安心できない」というのはまさにそうで、施設で育った人には幼少期に「安心して“子ども”を生きてこられなかった」という共通点があると思います。その背景には身体的な虐待だけでなく、精神的な虐待、ネグレクト(育児放棄などで子どもにとって必要なものや環境を与えないこと)などがよく挙げられます。
たとえば父親が母親を殴る姿を見てしまうのも、子どもには大きなダメージを与えます。また、最近「教育虐待」という言葉が聞かれるように、がんばらないと認めてもらえないというのも私はひとつの虐待だと思っています。
ただ、虐待が原因だとくくるより、重要なのは「安心して子ども時代を送れなかった」ということなのだと最近思うようになったんです。
為末:子どもなのに、子どもらしくいられなかった?
高橋:そうですね。先ほどの「自己肯定感」に通じますが、自分の中にある安心って親とのやりとりや家庭の中で育まれていくものだと思うんですね。でも、何かしたら殴られる、何もしなくても殴られるという緊張状態で過ごしてきた子どもにとっては家庭が不安の塊で、とにかく自分で自分を守らないといけない。そんな時期を過ごしてきた人に、ゆずりはでもたくさん出会ってきました。
為末:うまく言えませんが、世の中に「信用」というものが一切存在しない世界で生きてきたということなんでしょうか。僕が見てきた世界とはぜんぜん違う。突然そんなところに放り込まれたら、異常な緊張感があると思います。
高橋:そうですよね、とても怖いと思います。自分の安心が育まれていると、ある程度のことにはチャレンジできるんですね。間違ったり失敗したりしてもいいや、と思える。でも安心が育まれていないと「周りの人はすべて怖い」が出発点になってしまうんです。
たとえば、家賃の支払いが滞ってしまっている人が相談にきたとします。払えるメドがあるなら大家さんに「いつ払えるので待ってほしい」と交渉することもできると思いますよね。だけど、ちょっと大家さんに聞いてみることが、本人にとってはすごく怖いことの場合もあるんです。しかも、私たちとの信頼関係ができていないと、第三者である私たちに「大家さんに『払えない』と言うのが怖い」と伝えることすら難しかったりもして。
私も、海外旅行に行って言葉が通じないと、話すのをためらったりします。外国語で一から説明したり、お願いしたり交渉したりすることを想像すると緊張するし、どんな言葉で伝えていいかわからない。それよりももっと、怖いと感じながら人とやり取りしているのかな、と思うことがあります。
為末:何らかの問題があるとき、それを解決するか、折り合いをつけて共存するかという2通りのアプローチがあると思うのですが、ゆずりはの支援は後者なのかなと感じます。ただ、それは生産性を重視するビジネス的な思考からすると、終わりがなく、非効率とも捉えられる。高橋さんはどうして、寄り添っていくようなアプローチを続けているのですか?
高橋:これまでの活動を通して、私たちがどれだけ働きかけても「解決」は難しいと思ったから、というのが正直なところです。大人になってからどれだけ周囲と関係を築いても、子どものころに自分がいちばん求めている人と安心な関係が育めなかった経験は、なかったことにはできないんです。
お母さんに愛されたかった、抱きしめてほしかったという思いは、今がいいならもういいじゃないか、とはならない。大事にされない経験を抱えた人が大人になる過程で、私たちは親や家族ではないけれどあなたを助けたい、そこから育まれるものがあるはずだとどれだけ思っても、その人の心の傷は消えません。
為末:解決は難しいということにどうやって気づかれたのですか?
高橋:最初は私もどうにか解決できるはずと思っていたんです。でもたくさんの出会いの中で、心の傷や奪われたものは測り知れないし、じくじくと痛むものはずっとあり続けるんだと、それを含めて目の前にいるその人なんだと私自身が自覚できるようになりました。
今思うと、以前は「どうにか解決しなくては」という「支援者目線」だったと思います。「あ、どうにもできないんだ」とわかったとき、こっちはこっちでできることを一緒にしていけばいいと思えて、私も楽になりましたし、相談をしてくれる人との対等なやりとりが生まれた気がします。
今は生産性や効率を求められる世の中ですし、私たちも行政や支援を受けている団体から「成果を数字で出してください」と言われることもあります。でも、ここは生産性などとは無縁の世界です。以前は求められる枠組みに数字を無理やりあてはめたりしていましたが、もういいじゃないかと。数字では表しきれない、私たちにとっての成果を伝えていくと、「そういうことなんですね」と理解してくださる方もいて。そんな積み重ねが大事だと思っています。
為末:問題を解決するのではなく、抱えて生きていけるように寄り添うというお話を聞くと、生産性を求めない、数字で測れない世界なんだとつかめてきますね。僕が今、少し理解したように、みんなの理解が進んでいくことが大事だと。
高橋:そうですね、もっと私たちも伝えていくことが必要だと思っています。今回、為末さんとお話できると聞いてとてもうれしかった半面、大丈夫かなという気持ちもあったんです。アスリートの方はまさに数字の世界で生きていらっしゃるじゃないですか。いちばん遠い世界というか、理解してもらえるのかなと心配もあったんです。
為末:たしかに僕のバックグラウンドは陸上選手ですが、子どものころは読書部だったんですよ。球技とかはぜんぜんできなくて、人への共感がわりと強いからか、打ち負かすということが苦手だった。足だけは速かったのでスポーツの世界に入って、自分と折り合いをつけながらやってきたんですが、そういう人間が最終的に興味を持つのは「心」だったんです。
人間はどういうときに力を出せるのか、がんばれるのか、と。
スポーツ界では画一的に「がんばれ」と言いますが、よく観察していると1の力でがんばれる人と、100の力をふりしぼってやっと、という人がいる。そもそも土台から違っている気がして。スポーツ界がそもそも、がんばれる人たちで競争する世界なので、がんばれない状況について一層考えるようになったんです。
高橋:がんばれない人も、もともとはがんばりたい気持ちはあったと思います。その「がんばりたい」を奪われてきた、あるいはがんばることを強いられて無理を続けて、もうパワーが残っていない。他の人が難なくできることも、100の力でやっとできるかどうか、という生き方になってしまっている状態だと捉えています。
たとえば、不登校の背景に虐待があることは少なくないんですが、学校は嫌いじゃないのに、行く気力がなくなって学校に行けなくなる。それがはたから見ると、怠慢だと思われることもあります。
為末:ああ、周囲から見えることと、本人の心の中で起きていることがぜんぜん合致しないんですね。