( 【前編】はこちら )
為末:虐待とまったく同じとは言えないと思いますが、スポーツ界では長年の体罰の問題に対して、今さまざまな場所で取組みがされています。僕も自分なりに活動や発信をしていますが、指導者から体罰を受けている子はすぐわかるんです。ミスした瞬間に指導者の顔を見るので。そうした他人の顔色を常にうかがう姿勢はなかなか抜けないし、大人になって自分が指導者になると体罰をする側になってしまう。
高橋:虐待も体罰も、いわば暴力の肯定だから、切っても切り離せないことだと思います。繰り返してしまうというのも、そうですね。
ゆずりはでは、子どもを虐待してしまうお母さん向けの年間プログラム(MY
TREEプログラム)もおこなっています。暴力じゃなくても、子どもに腹が立ってしまうとか、愛したいのに愛せないというつらさを抱えている方々です。そういう人こそ「いい親にならなきゃ」と一生懸命なんですが、ほとんどの場合、体罰をやめたいと思いながらもどこかで「子どものために手をあげている」という気持ちもあるんです。日本で起きている虐待の要因として、しつけの一環だという認識は大きいと思います。
為末:プログラムでは、やはりその認識・認知が変わるようにアプローチしていくのですか?
高橋:そうですね。ただ、その前提にまず、ご本人がどんな子ども時代を送ってきたか、親とはどんな関係で、今のパートナーとはどんな関係かを振り返ることが必然となります。最初はありふれた話のように語られても、次第に「実は嫌だった」「実は私のためじゃなかった」と気づく過程があります。
そうした経験に日々の中で折り合いをつけていても、どうしても強いストレスがあります。そのはけ口が弱い存在である子どもになってしまうことが、いろんなところで起きているんじゃないかと思います。
為末:自分にストレスがかかるとき、その要因に対して嫌だと拒絶するんじゃなく、また別のところに負の影響が出てしまうということですね。加害と被害がつながって、社会の中に入り混じっているような。そして、さっきおっしゃったように被害を受けるほうは嫌だったと気づいていなかったりするから、より連鎖が複雑になって、見えにくいんですね。
高橋:そう思いますね。生まれたときから加害者という人はいないから、加害の背景には被害を受けてきたことがあるケースがほとんどだと感じます。もちろん加害に至らない人も多いですが、自分がどれほど苦しんでいるかを自覚していなかったりするから、周囲の理解もなかなか及ばないんですね。
たとえば生活保護の申請にしても、なぜ必要なのか、流暢には話せません。そうすると窓口では就労を前提にしたアドバイスをされてしまい、がんばれない自分を責めてしまう。残念ながら支援の手が届かず、犯罪に手を染めてしまう子もいます。また、ゆずりはでサポートしていく過程で、自分の中のケアされないままでいた苦しみが怒りになり、身近にいる私たちに感情をぶつけてくることもあります。「俺の気持ちがわかるか」とか、「偽善者」と言われることもあります。
為末:そうなんですか……親に言いたかったことなのかもしれないですね。
高橋:そうかもしれないですね。それで私も、お母さんになってあげたいと思った時期もありましたが、それは無理だとわかりました。今では「それって本当に私に怒ってるの?」と聞いたりしながら、誰に対するどんな怒りや感情なのかを一緒に整理していくようにしています。お母さんになることはできなくても、苦しい気持ちを聞いて一緒に叫ぶことはできるし、追い込まずに「今日はもうラーメン食べに行こう!」 みたいなやりとりをしたりすることもあります(笑)
為末:高橋さんの寄り添い方が少しわかったように思います。児童養護施設の支援をしている友人がいるんですが、少年犯罪のニュースを見たときの反応が明らかに違うんです。もちろん罪は悪いことですが、罪を犯した人より、それが起きてしまった社会構造を見ている。僕らのような(社会への発信力をもった)人間は、その構造を変えることを考えていかないといけないと思います。それは簡単なことではないですが、そのためには、やはり想像力がすごく大事な気がしています。
高橋:本当に。私も、キツい言葉をぶつけられて言い返したくもなりますが、いったん踏みとどまって、この子はどんな幼少期を送ってきたんだろうと想像したり聞いたりしています。最初は他人行儀ですし、こちらも無理に聞くことはないですが、信頼関係が育まれていくと、自分の話を語ってくれます。そんなとき、本当によくここまで生きてきたね、と感じます。
ゆずりはの活動の前に自立援助ホームの職員をしていたころ、入所している15、6歳の子たちが何気なく「一日でいつがいちばんしんどいか」という話をしていて、一人が「朝起きたとき」と言ったら、みんなが「あるある」と答えたんですね。「また一日が始まる、生きなきゃいけない」とつらく感じるんだと知って、そんなのは嫌だと思ったんです。私も子どもがいますが、まだ年端のいかない子がそんなふうに感じているなんて、切なすぎる。その思いがあるから、今も仕事を続けられているように思います。
為末:ゆずりはでは、相談に乗ったり手続きを助けたりするほかに、ジャムを作って販売もされているんですよね。なぜ、ジャム作りに至ったんでしょうか。
高橋:不安が強く、毎日がんばることが難しいと、外での就労もうまくいかないという人が多かったんです。ゆずりはの活動を知って「うちで(就労を)受け入れるよ」と言ってくれる経営者の方もいたんですが、社長さんに理解があって雇ってもらえても、現場で一緒に働く人たちからは怠けているように見えてしまうことが多くて。そうするとトラブルになったりして、働くのが怖くなってしまう。でも働きたい気持ちはあるので、安心できる人間関係の中で働く準備をしてもらうにはどうしたらいいかと考えてジャム作りをはじめました。ゆずりはのある国分寺や小金井エリアは、果物の生産が多いんです。農家さんの協力を得て、地産地消を中心にいくつかの種類を作っています。
これまでゆずりはで出会った人たちからは「私たちは、してもらうばかり」だとよく聞いてきました。でも、週1回ゆずりはに来て一緒に仕事をすると、「ありがとう」を言うのではなく言ってもらえる。それが、気持ちにプラスになっていると思いますね。みんなで作業をしていると、揉めることも多いですが(笑)、楽しいです!!
為末:ありがとうと言われることって、大事ですよね。ちょっと違うかもしれませんが、東日本大震災のあと、僕らオリンピック選手が行けば少しは励みに感じてもらえるだろうかと、被災地を訪れてスポーツ教室をしていたときの話があって。子どもたちにいろいろ教えたあとに感想のアンケートをもらうと、「自分たちが作った贈り物を渡して、選手が『ありがとう、これでがんばれるよ』と言ってくれたことがうれしかった」と、すごくたくさんの子どもたちが答えてくれたんです。もらうだけではなく、何かをあげたり、してあげて感謝されたりすることが人には必要なんだと、僕らも気づきになりました。
高橋:よくわかります。私たちも、折に触れて「ありがとう」と言っています。まずは連絡をもらわないと、その人に出会えないから、勇気を出して連絡をくれてありがとうね、というのがひとつ。そして、想像できないくらい大変な状況の中で、とにかく生きてきてくれたことに、「生きてきてくれてありがとう」の気持ちを伝えています。
何が起きていて、何に困っているかを教えてくれたら、それは私たちにとってまた次の誰かの安心や安全をサポートするのにも役立ちます。その意味でも、出会ってくれて「ありがとう」なんです。
為末:そういう考え方をされているんですね。最後に、もうひとつうかがってもいいですか。自分の中で、どういうふうに整理していいかわからない言葉がひとつあるんです。「自立」という言葉です。
たとえば競技者としての人生で「自立」と語られるとき、自分で選んで決めて、自分がしたことの責任を取るのだという意味で使われます。社会においても、たぶん同じですよね。一方で、依存先がたくさんあるというとらえ方もできると思うんです。結局、何にも依存していない人はいませんし、複数の依存先があれば何かあっても崩れないで安定している感じがします。
日本人はもっと自分の人生を自分で選んで生きていくために自立が必要だと考えているのですが、一方で自立という言葉自体が持つなんでも一人でやるというイメージが、社会的に苦しい状況の人を追い込んでしまっているのではないかと恐れています。たとえば流されて生きてきて、だけど勇気が出なくて自分の人生を選べていない人には、自立しろと背中を押したい。一方で、苦しい状況の人には自立より依存。もっと頼ってほしいと思います。しかし、今の時代、インターネットがどこにでも広がっていて、言葉を個別に選ぶことができません。「自立」という言葉をどう扱っていけばいいのかについてうかがいたいです。
高橋:「自立」って、難しい言葉ですよね。ゆずりはでも、とても重要なテーマだと捉えています。社会的養護では、いわゆる自立、独立、巣立ちといった時期が「高校卒業時」と一律になっていますが、これだけ一人ひとりの状況と経験が違うのに、本当は一律にできるわけがありません。
おっしゃるように、周りを頼っていいと思います。一人で全部できることを目指す必要もない。むしろ「助けて」と言えることが大事だと思います。なので、「頼ることも含めて自立なんだよ」と言い続けていた時期もありました。でも、どうしても受け取る側は自分でがんばる「自己責任」のイメージを持ってしまう。だから今は、「自立」という言葉を使わないようにしているくらいです。
大事なのは、孤立させないことです。この子が自立するために、ではなく、孤立させないようにしようと今は思っています。
為末:とても共感します。自立とか、独り立ちとか、そんなにきっぱりとしなくていい。周りに頼れる人を見つけながら、それぞれの状況や経験に応じて進んでいけたらいいですね。また、そういうゆるやかさを許容する社会になったらと思います。今日はたくさんのお話、ありがとうございました!